4 名前: ◆m6SBqdYQa6 :2009/08/24(月) 20:24:00.96 ID:t0eWtfagO
──夢に見ていた世界は、僕が思っていたよりも色褪せたもので。
日銭を稼ぐ為に削られていく睡眠時間が、日に日に僕の感情を摩耗させていく。
床に転がったアルコールの絞り滓が、夢を見て故郷を飛び出した僕自身のカリカチュアに見えて、苦笑が漏れる。
安い煙草に火を点けて窓の外を眺めても、大都会のイルミネーションはよそよそしい表情で僕から目を逸らすだけ。
あの頃、様々な想いと共に見上げた星座はそこになく。
ただ、ただ、ケバケバしいだけの明かりが、無関心な光を投げかけるだけ。
小説家。
三流の弱小出版社に頭を下げ、人気作家のゴーストライターをする為だけに払った代償は、あまりにも高くついた。
60キロあった体重は50キロに減り、髪にはこの歳にして白いものが混じり始めた。
5 名前: ◆m6SBqdYQa6 :2009/08/24(月) 20:25:03.89 ID:t0eWtfagO
もう、止めようと思う。
全て、終わりにしようと思う。
その前に、一つだけ記そうと思う。
僕がどうして、こんな世界を夢見たのか。
僕がどんな思いで、この独白を綴っているのかを。
6 名前: ◆m6SBqdYQa6 :2009/08/24(月) 20:26:48.21 ID:t0eWtfagO
──結末から言えば何も無かった。
僕は、僕の物語は、結局、同じ所をぐるぐる回っていただけで、何も特別なことなど無かった。
読むに耐えるような物語では無いだろう。
いや、物語という体裁すらとっていないだろう。
それでも、僕は綴ろうと思う。
僕と。そして彼女との。僕が語りうる限りの“感傷”を。
8 名前: ◆m6SBqdYQa6 :2009/08/24(月) 20:29:09.32 ID:t0eWtfagO
──高校二年のことだったと思う。
いや、正確に言えば、もっと前かも知れない。
ただ、少なくとも、僕が彼女と初めて言葉を交わしたのは高校二年の夏だった。
夏休みが始まる、一週間くらい前のことだった。
図書室だった。
出会いは図書室だった。
内気な性格の僕は本を読むこと以外にこれといった趣味も無く、部活動にも参加していなかった為、昼休みと放課後は決まって図書室に入り浸っていた。
そこで、彼女と初めて出会った。
前述の通り、もしかしたらそれ以前にも彼女とはどこかで会ったことがあるのかもしれない。
それでもやはり僕が彼女と言葉を交わしたのはその日が初めてで、僕が彼女を彼女として認識し始めたのもその日が初めてだった。
「おすすめの本を教えてもらえませんか?」
唐突だった。その一言に尽きる。
背後からだった。不意打ちに過ぎる。
振り返った。其処に、彼女が居た。
10 名前: ◆m6SBqdYQa6 :2009/08/24(月) 20:33:47.53 ID:t0eWtfagO
寝不足なのだろうか。
それが第一印象だった。
直毛の黒髪は肩口で切り揃えられ、ほっそりとした輪郭とも相まって大人しそうな外見を形成するのに一役買っていた。
僕が寝不足なのかと思ったのは、彼女の目が糸のように細かったのもあるが、やはりその佇まいだろう。
ぼんやりと体を左右に揺らせている姿は今にも倒れてしまいそうで、初めて彼女に会った人間なら慌ててその肩を掴んでしまうに違いない。
現に、僕もそうしかけた。
lw´‐ _‐ノv「あの、おすすめの本を、おしぺ……」
噛んだ。その瞬間は今でも鮮明に思い出せる。
lw´‐ _‐ノv「……えと。えへへ」
ばつが悪そうに目を伏せて、照れ笑い。
僕は言葉に詰まって苦笑い。
それが、彼女と僕の、第一種接近遭遇だった。
11 名前: ◆m6SBqdYQa6 :2009/08/24(月) 20:35:36.26 ID:t0eWtfagO
lw;´‐ _‐ノv「えと、えと」
出鼻を挫かれて、彼女はオロオロ。
それにつられて、僕もオロオロ。
lw;´‐ _‐ノv「おす、おす」
しどろもどろ。気もそぞろ。
お互いに取り乱し、挙動不審に流れていく放課後の橙色の時間。
lw;´‐ _‐ノv「おすすすめの…」
結局、彼女が再びぶきっちょな言葉を紡ぐまで、僕は目をきょろきょろと動かしていただけで。
lw;´‐ _‐ノv「ほ、本を…」
彼女の言葉の意味を理解しても、僕は上手く言葉が紡げず。
lw;´‐ _‐ノv「え?」
気がつけば、僕は今さっきまで読んでいたハードカバーのそれを乱暴に彼女に押し付けると、逃げるようにしてその場を後にしていた。
17歳の夏。
僕が、初めて母親以外に女性とコミュニケーションを取った記念日だった。
12 名前: ◆m6SBqdYQa6 :2009/08/24(月) 20:36:40.61 ID:t0eWtfagO
──心臓は張り裂けそうだった。
精神的免疫機構は、“女の子”という新種のウイルスに対して、情けないまでに無力だった。
その日の晩、僕はベッドの中で、無駄に高ぶる胸の鼓動を聴きながら、後悔した。
彼女に渡したあの本には、僕の作文のテストが、しおりの代わりに挟んであったのだ。
16 名前: ◆m6SBqdYQa6 :2009/08/24(月) 20:39:29.64 ID:t0eWtfagO
──頭を抱えて登校したのを覚えている。比喩では無く、実際にこの小さい頭を抱えながら、校門をくぐったのだ。
テストは、俗に言う、赤点だった。
教師のコメント曰わく、“作文向けの文章ではない”とのこと。
とても他人に見せられるものではない。
授業中も、昼休みも、僕のか弱い胃腸はキリキリとした痛みを上げ続けていた。
とにかく、彼女があの作文を読む前に本自体を返してもらわなければ。
終業のチャイムと同時、僕は痛む胃を抑えながら──やはり比喩ではなく──図書室の扉を開いた。
一番乗りの図書室には僕以外の影は無く、いつもの窓際の席に腰を下ろすと、幾分か胃の痛みは落ち着いたものだった。
17 名前: ◆m6SBqdYQa6 :2009/08/24(月) 20:42:03.28 ID:t0eWtfagO
そうして冷静になって考えてみると、僕は“彼女”の名前を知らないことに気付いた。
初めて女の子から声を掛けられたという事実に気が動転していて、それどころじゃなかった。
此処で待っていれば、また会えるだろうか。
名前など知らずとも探そうと思えば探せた筈だが、僕は椅子から腰をあげられなかった。
つまり、僕はそういう人間なのだ。
ペンと、紙が無ければ何も出来ない、そういう類のどうしようもない人間なのだ。
だから、今もこうして、こんな益体もない文章を書きなぐっているのだ。
……さて、話を戻そう。
結局、その日、彼女が図書室を訪れる事は無かった。
僕は閉館時間ぎりぎりまで粘って痛くなった尻をさすりながら、すごすごと退散を余儀無くされた。
胃の痛みは、結局それから終業式の放課後まで続くこととなる。
18 名前: ◆m6SBqdYQa6 :2009/08/24(月) 20:43:58.97 ID:t0eWtfagO
──陰鬱だった。終業式までのその数日間は、僕にとって胃の痛みとの戦いの日々だった。
友人皆無、勉学微妙、運動壊滅という三重苦を背負った僕にとって、夏休みは間違いなく至福の時間の筈なのに、だ。
“彼女”はあの作文を読んでしまったのだろうか。
きっと、夏休みがあけたら、学年中に僕の 情けない点数が広まっているに違いない。
目立たないだけでいじめとは無縁だった僕は、自分が生け贄の祭壇に捧げられる様を幻視しては胃のあたりを抑えて呻いた。
校長のスピーチを上の空で聞き流し、陰惨たる思いで一学期を締めくくった僕は、最後の悪足掻きとして図書室の扉をくぐった。
19 名前: ◆m6SBqdYQa6 :2009/08/24(月) 20:46:53.82 ID:t0eWtfagO
lw´‐ _‐ノv「あ」
やはり不意打ちだった。
僕は、その時、腰を抜かし掛けた。今でも、よく踏ん張ったものだと思う。それくらいに、唐突なことだった。
思えば、彼女にまつわる何がしかには、常に唐突の二文字がつきまとっていた。
lw;´‐ _‐ノv「え、えと……」
ドアを開けたら、真正面には彼女の姿。
lw;´‐ _‐ノv「あ、あの……」
僕たちはシチュエーションに恵まれず、相も変わらずお互いにうろたえていた。
lw;´‐ _‐ノv「こ、これ……」
だから、やっぱりとういか。
彼女がハードカバーの本を差し出した時、僕はタイトルも見ずにそれをひったくると、後ろも見ずに駆けだしていた。
会話をする余裕など無かった。言葉を紡ぐ余裕など無かった。
無我夢中で走り続け、気がついたら我が家のベッドに倒れ込んでいた。
20 名前: ◆m6SBqdYQa6 :2009/08/24(月) 20:48:19.67 ID:t0eWtfagO
彼女は、あの作文を読んでしまったのだろうか。
面と向かって確認する余裕も無い僕は、間違いなく臆病者だった。
見たくないものからは、目を背ける。
つまり、僕は、そういう人間なのだ。
だから、僕がそれを目の当たりにしたのは、本当にただの偶然だ。
破れかぶれな気持ちで、彼女から引ったくった本を机に投げ出した時だ。
ぱさり、という音と共にそれは姿を表した。
つまみ上げて覗き込んだそれは、例の作文。
藁半紙に僕の汚い字と教師のサインペンの赤い文字が滲んだ、僕の“汚点”。
何の気なしにひっくり返して、僕はそれを見つけた。
“この文体、好きです。もっと他にも読んでみたいです”
僕の知らない筆跡で書かれたその一文は、“彼女”の書いたものなのか。
その一文が、一体何を指しているのか。
“この文体、好きです。もっと他にも読んでみたいです”
この本の感想だろう。そう思う一方で、僕は、この一文が、僕の作文に対する感想なんじゃないか、なんておめでたいことを考えてしまった。
21 名前: ◆m6SBqdYQa6 :2009/08/24(月) 20:50:14.70 ID:t0eWtfagO
高揚していく気持ちというのはなかなかにたちの悪いもので、僕は机の引き出しを開けると、今までに書いた“小説紛い”の原稿用紙を引っ張り出していた。
そうしてもって本棚から先の本と同じ作者のものを探し出すと、その原稿用紙を適当なところに挟んで溜め息をついた。
“この文体、好きです。もっと他にも読んでみたいです”
彼女が、誰の文体を気に入ったのかはわからない。
冷静に考えたら、随分と独り善がりなことをしている。現在の僕なら、同じ真似は絶対に出来ない。分をわきまえろと説教してやりたい。
それでも、僕は、“彼”が羨ましい。
少なくとも、あの時の僕は、今の僕よりもずっと、ずっと、輝いていたのだから。
23 名前: ◆m6SBqdYQa6 :2009/08/24(月) 20:52:45.46 ID:t0eWtfagO
──夏休み中に学校に通ったのは、後にも先にもあの夏だけっだった。
茹だるような熱気、高く、青く澄んだ空。
蝉達の大合唱を聴きながら、あぜ道を自転車で駆け抜けた。
自転車の籠には、トートバッグ。トートバッグの中には本。
名前も知らない“彼女”と逢うには、学校の図書室へ通う他に手段を知らなかった。
滅多にしない早起きをして、学校の門が開くのと同時にそれをくぐる。
駐輪場に自転車を停めると、はやる気持ちを抑えながら図書室を目指す。
図書室の扉をあけて、窓際の何時もの席へ。
そうして待った。
冷房の無い、人気も無い夏休みの図書室で。
来るかも分からない“彼女”の姿を探して。
僕には、ただ、待つことしか出来なかった。
24 名前: ◆m6SBqdYQa6 :2009/08/24(月) 20:55:17.90 ID:t0eWtfagO
人を待つ、なんて初めてのことだった。
たとえそれが本当に来るかどうかも分からない相手でも、心臓は慣れないことに何時もより早い鼓動を打っていた。
蒸し暑さと、図書室独特の黴と埃の匂いの中で、僕は変にしゃちほこばって椅子に腰掛けていた。
そうやって、暫くの間かちこちに固まったまま座っているうちに、僕の瞼が下がり始めた。
慣れない早起きに、体はついてこれなかったのか。
ナチュラルハイの後のしっぺ返しとも言おうか。
とにかく、情けないことに僕はそれに耐えることは出来なかった。
25 名前: ◆m6SBqdYQa6 :2009/08/24(月) 20:58:00.47 ID:t0eWtfagO
lw´‐ _‐ノv「もしもし…?」
八時から正午まで机に突っ伏して意識を失っていたのだから、ゆうに四時間も夢を見ていたことになる。
lw´‐ _‐ノv「あの……」
僕を眠りの壁の向こうから引き戻したのは、葉ずれのように優しげな声だった。
lw´‐ _‐ノv「えと……」
寝ぼけ眼で声の主を見上げる。
lw´‐ _‐ノv「おはようございます…?」
“彼女”だった。
僕の意識は一気に覚醒した。凄まじい勢いで立ち上がった。椅子が凄い音を立ててひっくり返った。
26 名前: ◆m6SBqdYQa6 :2009/08/24(月) 21:00:16.92 ID:t0eWtfagO
lw;´‐ _‐ノv「きゃっ!」
彼女の驚いた顔。それ以上に驚いた僕の顔。
ここまでシチュエーションに恵めれないと、僕は神様かなんかに嫌われているんじゃないかなんて思えてしまう。
lw;´‐ _‐ノv「え、えと……」
そして、お決まりの気まずい空気。
僕の反応に戸惑う彼女。
突然のことにうろたえる僕。
どうしてこうも僕らには余裕がないのか。
28 名前: ◆m6SBqdYQa6 :2009/08/24(月) 21:03:33.45 ID:t0eWtfagO
lw;´‐ _‐ノv「あう…ええと…」
そんな空気に耐えられず僕が走り出そうとした瞬間。
lw;´‐ _‐ノv「待って…!」
彼女が、僕の裾を掴んだのだった。
30 名前: ◆m6SBqdYQa6 :2009/08/24(月) 21:05:05.63 ID:t0eWtfagO
今でもあの時の“彼女”の勇気には感謝している。
あの時、“彼女”が僕の裾を掴んでくれなかったら、僕は今こうして筆を取ることもなかったろう。
lw´‐ _‐ノv「ほ、本をね…」
控えめに、精一杯に。
lw´‐ _‐ノv「貸して……欲しいの」
彼女は、そう言った。
僕は固まっていたと思う。あまり記憶に無い。ただ、用意してきた本を彼女に渡したのだけは確かだ。
lw´‐ _‐ノv「あ、ありがとう」
どもりがちな彼女の言葉は儚げで。
lw´‐ _‐ノv「明後日まで読んで返すから……」
直ぐに逃げ出していた僕には、そこまでしか聞こえなかった。
31 名前: ◆m6SBqdYQa6 :2009/08/24(月) 21:07:03.52 ID:t0eWtfagO
──家に帰ってから直ぐに、僕は柱に額を打ち付けた。大きなたんこぶが出来た。今でも僕の額には微かにその痕が残っている。
自分が情けなかった。
まともな言葉一つ紡げない己の口を呪った。
自己嫌悪ともどかしさの中で僕は、次に“彼女”と会ったら今度こそ勇気を出して会話を成立させてやろうと誓った。
悶々とした二日間は、這うような速度で過ぎていった。
彼女に言葉を紡げもしないくせに、足だけは物凄い勢いで自転車をこいでくれた。
約束の“明後日”。僕は、やはり誰よりも早く図書室へ駆け込んでいた。
32 名前: ◆m6SBqdYQa6 :2009/08/24(月) 21:08:59.36 ID:t0eWtfagO
──誰もいない図書室の、僕の特等席で、流れる汗も気にせずに僕は“彼女”を待った。
待っている間、僕の心臓はずっと早鐘を打っていた。
待っている間、僕の頭は“彼女”に掛ける言葉をずっと考えていた。
蝉が五月蝿いだけ鳴いていた。暑さに耐えきれず、窓を開けた。蝉のオーケストラのボリュームが上がった。暑いのは我慢することにした。
太陽が南中した。扉が開く気配はなかった。
プールから聞こえる水音が遠い。蝉の声はやけに近い。
僕は何をしているのだろう。疑問が頭を掠めた。
日が暮れた。扉が開いた。
('A`)「もう閉めっから早く帰りな」
国語科の教師が、鍵をぶらぶらさせていた。
僕は家に帰ると、夕御飯も食べずにベッドに潜り込んだ。
目を閉じて、このまま目が覚めなければいいのにと思った。
33 名前: ◆m6SBqdYQa6 :2009/08/24(月) 21:10:58.27 ID:t0eWtfagO
──それからの一週間は、ただ、何も無く漠然と過ぎていった。
思い出したように夏休みの宿題に手を伸ばす他は、扇風機の前でぼーっとするだけの毎日だった。
舞い上がっていた自分が、とても滑稽なものに見えた。
当たり前か、という諦めがあった。
自分が、いかに独り善がりなことをしていたかに気付いた。
穴があったら入りたかった。入って、自分で土をかぶせて生き埋めになりたかった。
僕は勘違いも甚だしい、ただの阿呆で、端からしたら見るに耐えない醜態を晒した道化でしかなかった。
36 名前: ◆m6SBqdYQa6 :2009/08/24(月) 21:14:13.91 ID:t0eWtfagO
自己嫌悪と後悔の中で、僕は一度は消えかかっていた幻想が再び鎌首をもたげるのを知覚した。
夏休み明けの教室に響く嘲笑い声、廊下ですれ違う生徒が肘で僕を小突く光景。
地獄絵図さながらと化すであろう学園生活を思うと、僕の体は重い鉛のようになったものだった。
後悔の溜め息と、絶望の呻き。それすらも出なくなると、のろのろと立ち上がって夏休みの宿題に手を付ける。
気晴らしになれば何でも良かった。最も、勉学の苦手な僕にそれは気晴らしの役目を果たしてはくれなかったが。
僕にはもう、それくらいしかやるべき事が見当たらなかった。
一週間、僕はまるでゾンビのように机にかじり付いていた。
37 名前: ◆m6SBqdYQa6 :2009/08/24(月) 21:15:46.66 ID:t0eWtfagO
──古文の宿題に頭を唸らせている時だ。
どうしても分からない言い回しがあって、僕は本棚を漁っていた。
古語辞典を探すこと約一時間──二時間だったかも知れない──、僕は、それを教室の机の中に置き忘れていることに気付いた。カラスが鳴き始める時間帯のことだった。
急げばまだ間に合う、という微妙な時間。僕は気怠げに自転車をこいで学校へと向かった。
40 名前: ◆m6SBqdYQa6 :2009/08/24(月) 21:17:33.14 ID:t0eWtfagO
自転車を降りて玄関に入ると、用務員のおじさんが鍵束をぶら下げて帰り支度を始めていた。
僕は少しだけ待ってくれるよう頭を下げると、靴箱を開けた。
そこで、見慣れぬものを見つけた。
“彼女”に貸した、あの本だった。
( ゚∋゚)「おおい、早くしろよー」
用務員さんが急かす声で我にかえると、僕はその本を抱えて走り出していた。
古語辞典のことは、既に頭になかった。
42 名前: ◆m6SBqdYQa6 :2009/08/24(月) 21:22:28.45 ID:t0eWtfagO
──あの日、恐らく僕は世界中の誰よりも早く自転車をこぐことに成功していた。
夕暮れ時の涼しくなりかけた空気の中を、まるで嵐のように駆け抜けたものだ。
家につくと自転車を放り出して二階の自室まで駆け上がると、ドアを蹴り開けてベッドにダイブした。
深呼吸を何度も何度も繰り返し、下手なダンスを踊る心臓が白けるのを待った。
三十分ほどして心臓のダンスパーティーが終わったのを確認すると、いよいよ例の本に手をかけた。
生唾を飲み込んだ。錆の味がしていたのを覚えている。
当時はそんなこと気にもとめなかったのだが、きっと強く噛みすぎた唇から血が出ていたのだろう。
ページをゆっくりと開いていった。僕が故意に挟んだ“しおり”を探して、ゆっくりと、ページを繰っていった。
43 名前: ◆m6SBqdYQa6 :2009/08/24(月) 21:24:43.58 ID:t0eWtfagO
ページを捲っている間は、とても複雑な気持ちだった。
“彼女”がまた感想を書いてくれているという保証は何処にもない。
もしかしたら、僕の勘違い甚だしい行為に生理的な拒絶反応を起こして、本だけを下駄箱に入れたのかもしれない。
いや、客観的に考えればその確率の方が高い。
量子物理学に、シュレディンガーの猫という有名な仮説がある。
箱の中に猫と、十分後に50%の確率で溶け出す致死性毒ガス入りのカプセルを一緒に入れる。さて、十分後、この箱の中の猫はどうなっているでしょうか。
この仮説を唱えたシュレディンガー氏曰く、箱の中の猫は「生きながらに死んでいる」状態にあるという。
現象というものは、観測するものがいない限り確定する事はないと彼は言いたいらしい。
この本の中に“彼女”の感想が書かれた原稿用紙が入っているかどうかは、僕が観測するまで確定しない。
僕の指は、そんな曖昧な状態に何時までも浸っていたくて、自ずとその動きを緩めた。
44 名前: ◆m6SBqdYQa6 :2009/08/24(月) 21:27:03.58 ID:t0eWtfagO
甘い誘惑だった。あまりにも甘美な誘惑だった。
おかげで僕はそれを振り切るのに、たっぷり一時間を要した。
原稿用紙を探すなら、ページをめくらずともいい。
本を振れば、はらりと落ちてくる。僕は勇気を出して、その行動に出た。
果たして、決着は一瞬でついた。
ページの間から落ちてきたそれは、裏面を僕に向けていたのだから。
目を瞑る暇もなかった。目を逸らすのが遅れた。
僕は、それをまともに直視してしまった。
46 名前: ◆m6SBqdYQa6 :2009/08/24(月) 21:29:51.28 ID:t0eWtfagO
“返すのが遅くなってごめんなさい。続きがあるんですよね?もっと、読んでみたいです”
僕は、その瞬間、声にならない叫びを上げて飛び上がった。
“彼女”に貸した本は、シリーズものではない。それは、間違いなく、僕の書いた“小説紛い”に対する感想だった。
頬が引きつった。ベッドの上をゴロゴロと二十四回程往復した。
もう一度、その一文を読み返した。
“続きがあるんですよね?もっと、読みたいです”
こみ上げる喜びの発散方法がわからず、取り敢えず僕は忍び笑いをしてみた。
それでも収まらないので、ベッドの上でムーンサルトを決めた。
母親がやってきて説教された。
47 名前: ◆m6SBqdYQa6 :2009/08/24(月) 21:31:48.61 ID:t0eWtfagO
母親の説教で頭の方は大分冷えた。
後に母親が語ったところによると、僕は説教されている間中、ずっと不気味な笑いを張り付けていたという。
引き出しを開けて原稿用紙を引っ張り出す。
“彼女”が書いた通り、あの“小説紛い”には続きがあった。
いや、本に挟んだのが全てではなかったというだけのことだ。
新人賞に応募するために書いていた作品で、これが後に僕のデビュー作となるのはここだけの話だ。
僕は本棚からまた同じ作者の本を取り出すと、前と同じように適当な所に原稿用紙を挟んで閉じた。
別にこんなことはしなくともいいのだろうが、なんとなくそうした。
臆病者の証だろう。
48 名前: ◆m6SBqdYQa6 :2009/08/24(月) 21:33:22.56 ID:t0eWtfagO
──興奮して眠れなかった、という話をよく聞く。僕もその例に漏れず、その晩はなかなか寝付けなかった。
翌日は久し振りに早起きして、図書室を訪れようと思っていたにも関わらず、見事に寝坊した。
目を覚ました時には時計の針が十一時を回った辺りで、僕はとるものも採らず全速力をもってして自転車を走らせた。
直射日光と、カエルの鳴き声に包まれながら自分でも信じられない速度で校門をくぐった。
僕の人生におけるバイタリティは、この夏にその半分を使い果たしたのではないかなどと、今更に思う。
図書室の扉を開けて、弾んだ息を整えて、何時もの席を見やる。
lw´‐ _‐ノv「やっときた」
そこに、“彼女”が居た。
52 名前: ◆m6SBqdYQa6 :2009/08/24(月) 21:36:34.28 ID:t0eWtfagO
案の定、足は既に出口に向かって駆け出そうとしていた。
口は金魚のようにパクパクと動き、目は明後日の方向を見ていた。
lw´‐ _‐ノv「……」
その時僕が逃げ出さずに“彼女”へと一歩踏み出せたのは、奇跡としか言いようがない。
その夏、僕はバイタリティの外に人生における半分以上の勇気を使い果たして、“彼女”へと歩み寄った。
lw´‐ _‐ノv「へへへ」
控えめに、それでもどこか悪戯っぽく、“彼女”が笑った。
lw;´‐ _‐ノv「も、もう、待ちくたびれたんですけど」
つっかえながらも、“彼女”は僕の目を見て話そうとする。
僕もそれに応えなければ。何か、言葉を返さなければ。
焦燥に脳味噌がオーバーヒート寸前になった時、僕は辛うじて口を開くと、掠れた声で言った。
(;-_-)「さ、先に遅れたのはそっちじゃないか…」
54 名前: ◆m6SBqdYQa6 :2009/08/24(月) 21:39:32.59 ID:t0eWtfagO
随分とひねくれた言葉だ。
普段から他人とまともなコミュニケーションを取らないと、こういうことになる。
それでも“彼女”は柔らかな笑みを浮かべると。
lw´‐ _‐ノv「本、貸して」
囁くように、そう告げた。
(;-_-)「う、うん…」
僕はぎこちない動作でトートバックから件の本を取り出すと、“彼女”に差し出した。
lw´‐ _‐ノv「……ありがとう」
“彼女”の手が本に伸びる。僕の脈拍が早くなっていく。
腋の下に汗が滲む。足が震え始める。僕の精一杯の勇気が挫けそうになった、その瞬間。
lw*´‐ _‐ノv「……きょ、今日は…お話しもしようよ」
おずおずと、“彼女”が切り出した。
(;-_-)「い……」
僕はやっとの思いで“彼女”に本を手渡すと。
(;-_-)「いいよ」
残りの勇気を全て使い切った。
55 名前: ◆m6SBqdYQa6 :2009/08/24(月) 21:41:44.57 ID:t0eWtfagO
──その会話は、酷くぎこちないものだった。
lw;´‐ _‐ノv「……い、何時もは、どんな本を読むの?」
(;-_-)「え、えと…その…伊坂幸太郎…とか……」
lw;´‐ _‐ノv「ふーん……」
(;-_-)「……」
lw;´‐ _‐ノv「……」
会話の体をとっていない、とすら言えようか。
“彼女”も僕も、話すということが苦手だったから、状況は泥沼にはまっていた。
lw;´‐ _‐ノv「わ、私は…えと…その…江國…香織とか…」
(;-_-)「あぁ…うん…」
長机に並んで座り、代わる代わる質問の応酬をした。
どんな作家が好きか。どんなジャンルが好きか。どんな文体が好きか。
聞けば答えて、けれども、それ以上は続かない。
続かないから、また別の質問をする。
それの繰り返し。
57 名前: ◆m6SBqdYQa6 :2009/08/24(月) 21:43:33.23 ID:t0eWtfagO
lw;´‐ _‐ノv「な、夏目漱石ってさ…凄く…綺麗な文を書くよね」
それでも。
(;-_-)「う、うん…わかるな…“文鳥”の始めの方でさ…」
lw*´‐ _‐ノv「そ、そこ私も好き…!」
(*-_-)「ほ、ほんと?」
少しずつ、手探りで進めていくそんなやり取りが、僕には楽しくて。
(*-_-)「じゃ、じゃあさ、夢十夜は読んだ?」
lw*´‐ _‐ノv「あ、そっちはまだかも……」
(*-_-)「読んでみなよ!ちょっと不気味な所が多いけど、きっと気に入るよ」
lw*´‐ _‐ノv「そ、そうかな?」
(*-_-)「僕が保証する!」
気がつけば、僕たちの会話には、笑い声が混じっていた。
58 名前: ◆m6SBqdYQa6 :2009/08/24(月) 21:47:00.06 ID:t0eWtfagO
一度滑り出してしまえば、あとは黙っていても転がっていく。
拙さを残しつつも僕たちの会話は途切れる事なく続き、国語科の教師が閉館時間を告げることでやっと終わりを迎えた。
lw´‐ _‐ノv「あの……」
名残惜しそうに僕を見上げると、“彼女”は視線をさまよわせる。
(;-_-)「な、なに?」
そこに来て魔法が途切れたように、僕たちは何時もの臆病な高校生に戻ったことを自覚した。
lw;´‐ _‐ノv「また、明日も…その…」
“彼女”の言わんとすること。再会の約束。
僕の望むこと。右に同じ。
(;-_-)「……」
黙って頷き、背を向ける。
僕たちの夏休みは、こうしてやっと幕を開けた。
60 名前: ◆m6SBqdYQa6 :2009/08/24(月) 21:50:11.80 ID:t0eWtfagO
──それからの約二週間は、僕の人生の中で一番輝いていたと断言出来る。
僕たちは、毎日図書室に通い、閉館時間まで拙いお喋りを交わした。
ゆっくりと、歩み寄るような速度で、僕たちの対話は行われた。
(-_-)「それでね…えーと…」
lw´‐ _‐ノv「うん…うん」
端から見たら随分とまどっろこしく映っただろう。
それでも僕らには、その速度が一番丁度良かったのだ。
お互いが、お互いの言葉を噛み締め、次の一言をじっくりと考える。
それは、凄く大切なことだと、今でもそう思う。
lw´‐ _‐ノv「君は、どう思う?」
僕たちは、お互いの名前を知らぬままに、その時間を過ごした。いや、“彼女”は僕の名前を知っていただろう。
しかし、お互いに名前を呼ぶことは決して無かった。
クラスではどんな風に過ごしているか。家ではどんな風に過ごしているか。
僕たちの話には、自然とそんな話題が上がらなかった。
暗黙の了解だったのかも知れない。
不器用で、臆病な僕たちが、お互いに決めた、ルールだったのかも知れない。
61 名前: ◆m6SBqdYQa6 :2009/08/24(月) 21:54:35.13 ID:t0eWtfagO
僕たちの関係は、本と、図書室だけで辛うじて繋がっている、酷く儚いものだった。
(-_-)「あ、渡し忘れてた」
lw´‐ _‐ノv「ん…ありがとう。明日までに読むね」
そして、もう一つの暗黙の了解は、ずっと続いていた。
本の中に忍び込ませる“小説紛い”。
原稿用紙の裏に書かれた“感想”。
お互い、絶対に口には出さなかった。
まだ、そんなことを面と向かって話せるほど、僕たちは勇気を持っていなかった。
それでも、“彼女”の感想は日に日にその行数を増していき、そのうち的確な批評すら織り交ぜてくるようにすらなった。
僕は僕で、“彼女”に指摘された点を書き直しては、改訂版などと偉そうな肩書きを添えて本の間に挟んで渡した。
“彼女”は編集者ごっこを。僕は小説家ごっこを、“しおり”越しに楽しんでいた。
62 名前: ◆m6SBqdYQa6 :2009/08/24(月) 21:56:49.74 ID:t0eWtfagO
とても歪で、だけど精一杯な関係。
蝉が鳴き、陽炎が揺らめく季節。
僕たちは、図書室の中でその大半を過ごした。
(-_-)「……」
lw´‐ _‐ノv「……」
話題が尽きたら、お互いに沈黙する。相手に伝えたい言葉が見つかるまで、ゆっくりと思考を巡らせる。
僕らの話題は小説のことに限られていた。
暗黙の了解だったのもあるし、それ以外に話題が思いつかなかったのもある。
(-_-)「……」
lw´‐ _‐ノv「……」
64 名前: ◆m6SBqdYQa6 :2009/08/24(月) 21:59:35.91 ID:t0eWtfagO
そうやって、毎日のように小説の話ばかりしていると、自然と話題というものは尽きて行くもので。
(-_-)「ねぇ……」
lw´‐ _‐ノv「ん?」
(-_-)「いや、何でもない」
lw´‐ _‐ノv「…うん」
あの日から一週間も経つ頃には、僕たちの会話を占める沈黙の比率が多くなっていた。
66 名前: ◆m6SBqdYQa6 :2009/08/24(月) 22:01:18.26 ID:t0eWtfagO
(-_-)「……」
lw´‐ _‐ノv「……」
少なくとも、僕たちは沈黙を悪いものとは思わなかった。
ただ並んでいるだけでも、二人で過ごす時間は居心地の良いものだった。
だけど。
(-_-)「……ねぇ」
lw´‐ _‐ノv「……ん?」
(-_-)「……やっぱ、何でもない」
lw´‐ _‐ノv「そっか」
「やっぱ何でもない」が僕の口癖となった。
僕は、気がつくと“彼女”のことをもっと知りたいと、思うようになっていた。
67 名前: ◆m6SBqdYQa6 :2009/08/24(月) 22:03:58.61 ID:t0eWtfagO
──彼女の指摘を参考に手直しを終えると、僕は改めて最後の原稿を見つめた。
これをいつも通り本の間に挟んで渡せば、僕の“小説紛い”は完結する。
たった二週間とはいえ、“彼女”と共に編み上げてきた一つの物語が完結を迎えるというのは、何だか感慨深いものがあった。
同時に、“彼女”との関係がそれを機に終わってしまうのではないかなんて思う僕が居た。
名前も知らない、クラスも知らない。
僕たちは、図書室の中だけで会って、図書室の中だけで触れ合う。そんな、暗黙の了解。
そこで初めて足元が不確かな事に気付いて、僕は急速な不安に駆られた。
夏休みが終わっても、“彼女”は図書室に来てくれるだろうか。
この物語が終わっても、僕たちの物語は続いて行くのだろうか。
70 名前: ◆m6SBqdYQa6 :2009/08/24(月) 22:07:54.91 ID:t0eWtfagO
何か、決定的なものが欲しい。
僕たちを繋ぐ、確かなものが欲しい。
カレンダーに目を移す。
夏休みが終わるまで、あと三日。
僕は、最後の勇気を振り絞ってペンをとった。
72 名前: ◆m6SBqdYQa6 :2009/08/24(月) 22:12:15.91 ID:t0eWtfagO
──夕暮れの図書室で、僕たちは向かい合っていた。
lw´‐ _‐ノv「……」
(-_-)「……」
夕日に陰る彼女の小さな顔。僕は、無言でその本を手渡した。
lw´‐ _‐ノv「……ん」
満足げに目元を緩め、彼女は受け取る。
蝉の声。カラスの声。風の声。全てが遠かった。夏の終わりが近付いていた。
(-_-)「……えと」
何か言おう。きっと、その時の僕は、必死に言葉を探していて。
lw´‐ _‐ノv「完結、おめでとう」
だから、“彼女”が暗黙のルールを破った瞬間も、ただ、ただ、目を白黒させるだけで。
73 名前: ◆m6SBqdYQa6 :2009/08/24(月) 22:14:19.95 ID:t0eWtfagO
lw´‐ _‐ノv「応募、してみなよ。きっと良い線行くよ」
(;-_-)「あ、え、う…あぁ…」
lw*´‐ _‐ノv「……い、以上、ファンからの応援メッセージでしたっ」
顔を赤らめた“彼女”が、足早に図書室を飛び出した時も、追いかけることが出来なくて。
(;-_-)「あ…」
ありがとう。
その一言は、永遠に紡がれることは無かった。
74 名前: ◆m6SBqdYQa6 :2009/08/24(月) 22:15:51.90 ID:t0eWtfagO
──僕は、あの晩、初めて原稿用紙に私信を綴った。
確かなものを求めて、初めて自分の気持ちを文字に書き起こした。
“夏休み最後の日、一緒に花火を見に行きませんか?”
それは、僕たちの関係を、図書室から外へ出したいという、一方的な要求。
それは、“彼女”のことをもっと知りたいという、僕の一方的な欲求。
それは、“彼女”に面と向かって気持ちを伝えられない臆病な僕の、精一杯の勇気。
75 名前: ◆m6SBqdYQa6 :2009/08/24(月) 22:19:03.37 ID:t0eWtfagO
“彼女”は何と答えるだろうか。
僕の願いは“彼女”の瞳にどう映ったのだろうか。
拒絶されるだろうか。
受け入れられるだろうか。
夏休みが残り二日に迫ったその日、僕は期待と不安に揺れる胸を抑えながら、夕暮れの校門をくぐった。
蝉とカラスの混声合唱が響き渡る中、自転車から降りて玄関に入った。
“彼女”なら、きっと受け入れてくれるんじゃないか。そんな微かな望みがあった。
靴箱を開けた。手を伸ばした。そこに、“彼女”に貸した本が入っていた。
77 名前: ◆m6SBqdYQa6 :2009/08/24(月) 22:21:44.92 ID:t0eWtfagO
けれども、そこに“原稿用紙”は入っていなかった。
80 名前: ◆m6SBqdYQa6 :2009/08/24(月) 22:28:32.71 ID:t0eWtfagO
──夏休みが明けてから、僕は図書室に通うのを止めた。
図書室に通っていた時間を使って、帰って来なかった最後の原稿用紙の穴を埋めると、新人賞に応募した。
一次選考、二次選考、最終選考と進んで呆気なく僕の作品は入賞を果たした。
家に授賞式の招待状が届いた。
両親は喜んでいたけど、僕には何もかもがどうでも良かった。
そんな風にして、僕の夏は終わった。
81 名前: ◆m6SBqdYQa6 :2009/08/24(月) 22:30:50.26 ID:t0eWtfagO
──“彼女”とはあの日以来一度も会っていない。
同じ学校に居たはずなのに、廊下ですれ違うことも無かった。
会おうと思えば会えたのかも知れない。図書室に行けば、“彼女”の姿があったのかも知れない。
それでも僕が図書室へ足を向けなかったのは、人生における“勇気”の使用回数を使い切ってしまったからだった。
居るかも知れない。居ないかも知れない。
観測者不在のシュレディンガーの箱の中のような、曖昧な状態に僕は甘えて、「明日行ってみよう」と毎日言い訳をしながら。
結局卒業までに二度とそこを訪れることは出来なかった。
そして、卒業と共に、僕が“彼女”と再会する機会は永遠に失われた。
卒業アルバムに“彼女”の名前は載っていなかった。きっと、下級生だったのだろう。
卒業後、直ぐに上京した僕には母校を振り返る余裕など無かった。
ただ、ただ、がむしゃらに生きていくうちに、気付けば僕は担任だった教師の名前まで忘れてしまっていた。
83 名前: ◆m6SBqdYQa6 :2009/08/24(月) 22:34:01.30 ID:t0eWtfagO
孤独な夜に一人で発泡酒を飲みながら、僕は何度も何度も、僕と“彼女”について考えを巡らせた。
あそこでああしていたら。ここでこうしていたら。
膨大な時間を費やして、“たられば”を上げ連ねていく思考は、最後に必ずこの答えにたどり着く。
結局、僕たちの関係は図書室を出ることは無かった。
だから、“彼女”と共に紡いだ物語だけでも、持ち出そう。
せめて、“彼女”と共に過ごした夏を無駄にしないようにと。
だから、僕はあの新人賞に応募した。
85 名前: ◆m6SBqdYQa6 :2009/08/24(月) 22:35:43.64 ID:t0eWtfagO
作家になってからの僕の話なんてものはここに書き起こすまでもない。
ただ一つ言えるのは、僕が“彼女”以上に有能な編集者と出会えなかったということだけだ。
さて、そろそろここで筆を置こうか。
これを入稿したら、故郷に帰ろうと思う。
長々とした雑文に付き合ってくれて有り難う。
86 名前: ◆m6SBqdYQa6 :2009/08/24(月) 22:36:53.40 ID:t0eWtfagO
──私はそこまで読み終わると、古本屋で買ってきたその本を本棚の隅にそっとしまった。
飲みかけの紅茶を一口啜り、押し入れを開ける。
コタツや毛布で埋もれたそこを漁ること数分、やっとの思いで目的のものを見つけると、私は埃を払いながらその黄ばんだファイルを開いた。
高校時代のテストやプリントが挟まれたそれの、最後のページ。
変色して、よれよれになった一枚の原稿用紙を裏返す。
“19時、神社の境内で待っています”
届かなかった約束が。はさみ忘れたしおりが、其処にあった。
87 名前: ◆m6SBqdYQa6 :2009/08/24(月) 22:41:16.36 ID:t0eWtfagO
幼さの残るその文字を綴った時の気持ちは、今でも鮮明に思い出せる。
高鳴る胸の鼓動と、震える手先の感触は、今でも鮮明に思い出せる。
緊張して、でもこそばゆくて、嬉しくて。
ベッドに入っても心臓の鼓動は収まらなくて。
神社の境内で、“彼”を待っている時も、ずっと落ち着かなくて。
でも、花火が始まっても“彼”は来なくて。
図書室には、次の日から通わなくなった。
気付いたのは、高校を卒業してからだった。
上京前の大掃除。勉強机の裏から出てきたこの原稿用紙。
全てが手遅れで、どうしようもなかった。
95 名前: ◆m6SBqdYQa6 :2009/08/24(月) 22:58:48.45 ID:t0eWtfagO
今では、あの夏は私に取って、まるで夢か何かのように思えてしまうくらいに、曖昧なものになってしまった。
高校を卒業して、大学へ進学して、就職活動。
忙しさと、めまぐるしく変わる環境に、何時しか“彼”の存在さえも忘れていた。
“彼”がどうなったのかもわからなかった。最後に目にしたのは、卒業証書を貰っている背中だけだったから。
だから、“彼”の本を見つけたのは本当に偶然だった。
97 名前: ◆m6SBqdYQa6 :2009/08/24(月) 23:01:06.66 ID:t0eWtfagO
だから、私は久しぶりにペンを取ると、久し振りに手紙を書いて、この本に挟んでみようなんて思った。
99 名前: ◆m6SBqdYQa6 :2009/08/24(月) 23:02:09.10 ID:t0eWtfagO
──前略。今、私は夜行列車の中にいます。
一冊の本を胸に抱いて、向かうのは故郷。
そこに、君は居るのでしょうか。君が最後に記した本が絶版になってから、随分と時間が経ってしまった今ではもう、確かめようもありません。
君の言葉を借りるのなら、故郷はシュレディンガーの箱。
観測するまでわからない、不確定なもの。
居るかも知れない。居ないかも知れない。
居たとしても、私は君を見つけられるでしょうか。
居たとしても、君は私を見つけられるでしょうか。
101 名前: ◆m6SBqdYQa6 :2009/08/24(月) 23:09:37.94 ID:t0eWtfagO
時の流れはあまりにも早すぎます。
変わってしまったものは、あまりにも多すぎます。
だから私は、君に見つけて貰えるよう、この本を胸に抱いて行きましょう。
君によく見えるよう、タイトルを表にして街を歩きましょう。
そうしてもしも、君が私を見つけられたのなら。
その時は。
その時はまた、お勧めの本なんかを紹介してくれると嬉しいです。
──君の一番のファンより
-fin-
110 名前: ◆m6SBqdYQa6 :2009/08/24(月) 23:16:19.49 ID:t0eWtfagO
お付き合いいただき有り難うございました
皆様に乙と有り難うを
何かしら質問があればスレが落ちるまで見ているのでどうぞ
111 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2009/08/24(月) 23:17:12.38 ID:Q3F0EkLp0
んじゃ質問
やっぱヒッキーとシューは学年違ったの? 113 名前: ◆m6SBqdYQa6 :2009/08/24(月) 23:21:01.45 ID:t0eWtfagO
>>111
はい。ヒッキー君が一個上だそうです